昭和49年10月12日 朝の御理解
御理解 第84節
「おごりがましい事をすな。ものは細うても長うても続かねば 繁盛ではないぞ。細い道でも次第に踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やす様な事をすな。」
何時も人の通る道には草が生えない。けれどもそれと反対の事になって、通りの少ない道には、草がいっぱい生い茂る。何時もたゆまず流れに流れておる水の様に、滞りがあってはならない。細い道でも次第に踏み広げて通るのが、繁盛と仰せられる。長く続くというだけでなく、長く続いてそれが踏み広げられてと云う事にならなければ、繁盛でないと云う風に教えておられる。
昨日御本部から帰らせて頂きまして、御本部の方で頂いてきておる御本を、昨日一通り見せてもらいました中にね、伝導の条件という金光達太郎という先生が、金光教の話し方の研究会というのがあって、その事を話しておられるのが一冊に纏めてあるのですが。その目次を読ませて頂いて、この目次だけでも成程成程と思わして頂く事ばかりでしたから、今日はこの八十四節に、こう云う様な所が必要であり、こう云う様な事が欠けておると云う事を、皆さんもよく考えて頂きたいと思います。
この道がなぜ伝わらないかという事。伝える中身を身に付けているだろうか。伝える能力を身に付けているだろうかと。矢張り自分自身が、中身を持っておらなければならないと云う事ですね。内容がなからなければできない。人に話をして行くに致しましても。それから、伝える能力を身に付けているであろうかと。これは中々難しい事ですけれども、やっぱり何と言いますかね。
本当に人が助かって下さりさえすればと言う様な真心が大事だと思いますね。内容にはどう云う風に書いてあるか分かりませんけれども、そう思います。二番目に、伝える能力は人を大切にする心からと。人を大切にする心から。ひとつ挨拶は、人を大切にする第一歩であると言っとられます、挨拶は人を大切にするだい一歩であると。返事は第二歩であると。態度や服装も決定的なものである。これもやっぱり身なりと言った様な事も大事にしなければならないと云う事ですね。態度が又良くなからなければいけない。
会話は人を大切にする第二歩である。いや第三歩であると。お話をすると云う事は、人を大切にする第三歩である。相手の気持ちを大切に。纏まった話をと。伝える中身を身に付けるには、聞く努力をと。唯自分の言うだけで、人の言う事は聞かない。人が話し出すと、それは一つも本気で聞いていない。相手が何と言うたか分からない。唯自分の言う事だけを押し付けると言う様な事ですね。
良く聞けば、相手の心が分かる。よく聞けば、相手の心が良く分かる。良く聞けば、相手が助かる。良く聞けば、自分も育つ。負うた子にも教えられると云う事でしょうね。良く聞くには、聞く決心をせよと。これが、大事だと思うですね。お取次さして頂いてから思う事は、矢張りそのこちらが、本当に聞く決心をしないとですね。お届けが出来ない様な事があります。もうこちらが話して聞かせる言って聞かせる。
ただ教えを説くというだけでなくて、矢張り相手の言う事を聞こうとまず決心する事。だから先ずだから落ち着いて聞いてやれる。そげな事が大切と言われておりますね。良い聞き手になろう物差しを捨てよう。誰からも学ぶ人。最後に断絶よさようならという事を、この本にまとめてある訳です。自分が頂いておる信心を、人に伝える。それはそのまま、自分自身の助かりにもなる。合楽示現活動に参画すると言う様な事でも、一時的なものであってはならない。それこそ細くても長く是が続かねばならない。
決して神様の御心を対して、そしてそれを伝え行く運動ですから、それには色々矢張り工夫がいる。先ずは何と言っても、信心の内容を持たなければならない。言うならば体験を日々積んで行かなければならない。昨日宮野の平田さんがお礼参りして見えられました。御本部参拝する事を、もう前前からお願いしてあったけれども、どうしても御主人がお許しにならなかった。その朝お願いに見えられました。何でも同じですけども身体が例えば悪い、愈々お参りという段になったら愈々悪くなった。
だから御無礼をするそれはもうそれまでの話である。お参りが出来ない。出来そうにもない。それでもやはり決心して行くと言う事。どうでもこうでもというおかげにならなければならない。どんなに言うても御主人が許されない。もう教会に皆が集まっておる時間になっても許されない。もう本当にギリギリになってから、御主人が許された。おかげで御参拝が出来たとこう言われる。
ただ簡単に参られると言うが、本当に楽にお参りが出来るというよりも、そういうギリギリの所を乗り越えたり、おかげを受けてお参りするから、有難いのです。もうそうです。先生が仰るとおり、もう汽車の中であろうが、あちらの宿に付いてであろうが、とにかく有難いで一杯でした。丁度あるそうとう長くなりますけど、そこの先生と奥さんと二人がお参りになっとられる。「もう信者には無理を言うてはいけんから、まあ、私達夫婦でお参りした」と、こう言われる。
それで先ずあのう「先生、何かお話をして下さい」と言うたら、「もうなかなかお話は出来ない」と言われた。それじゃ信者がやぱり付いて来ない筈ですよ。私達は思いますのに、とにかく毎日神様にうち向うてその体験が生れて、その体験をにちにち誰かに聞いてもらわねばおられない程しの体験が生れて来る。さいきん合楽におかげを頂いて、合楽示現活動参画の話をされた。もう本当にびっくりして、その先生方夫婦が、そのお話を聞かれたと言うのです。
ですからお話というのは、自分自身が本当に神様にうち向うて、日々の体験がもう聞いて貰わねばおられない程しになって来なければいけません。唯お話が上手だけではいけん。日々体験を積んで行くと言う事が大事。同時にそれを伝えるだけではなくて、相手の人が助かって下さる為に、所謂真心の祈りがいると同時にです。又自分の話を聞いて頂く為にです。素晴らしい挨拶の出来れる。又は、態度や服装も決定的な物にになると言うのですから、是はお互い本当に注意しなければなりません。
会話は人を大切にすると言う事。又は相手の気持ちを考えてと言う事。沢山話す事はいらないから、それが纏まっておらなければならないと言う事。同時にお話をするというだけでなくて、よく相手の心が分かる。よく聞けば相手が助かる。よく聞けば自分も育つという体験を積まして頂く事によってです。自他共に、助かって行く。そう云う事がです。矢張り細々という、例えば一日に一人でも良いから、お話をさしてもらう。それにはなにか、そこに、一つの自分の信心体験というものがです。
些細な事でも良い。一口でも良い。二口でも良い。相手に、それを合点してもろうたり、感動して貰う様なお話の出来れるおかげを頂かしてもらう。そういう活動をしていると言う事、その事がです。私は細い道でも次第に踏み広げて行く事ができると言う様な風に、今日は聞いて頂いた。唯自分だけが、細々参っておる。拝んでおる。そこには動きがない。動きがないという事はです。それが言うならば、溜り水の様な結果になって、本当の事にはならない。感動している印。
示現活動というその活動。生きて動いておると言う事。それはただお参りをしておると言う事だけではない。お参りをしているおかげで、自分の上に次々と、生き生きしたものが生れる。体験が生れる。その一言でも人に伝えると言う事。それは私は踏み広げて行くと言う事に通ずると、そういう生き方にはです。道に草を生やす様な事はないと。先ずは一番皆さん、朝の御祈念にお参りさして頂いておられる方は、御理解の中の一言でも良い。本当にそうだと思うたり、真に有難い思うたりする。
その事を自分の心の中に、それをまとめて、言葉に出してみる。私はそういう生き方を身に付けていくと云う事がです。生き生きとして、踏み広げていく土台になると思うのです。何十年信心しとっても、お話して下さいと言うても、お話する事がないといったような事では、もうすでに、私は道を踏み広げていく努力と言った様な物が成されていないと見たと思います。愈々十六日はこちらの御大祭です。ですから合楽の御大祭ですから、どうぞお参り下さいと言うだけではいかん。
そこに何かあらそんなら私も一遍連れていって下さいと、例えば相手が言う様な思う様な話し方。何かそこに一つの素晴らしい切っ掛けが、生き生きとして出来る。私はそう言う所謂示現活動のさしてもらう、良いチャンスだと思うのです。それを例えば日々繰り返さして頂くと言う様な生き方には、お互い自他共に助かって行く道が開けて来るし、道に草を生やす様な事にもならないおかげも、所謂一挙両得のおかげが受けていけれると思います。
どうぞ。